当寺院について

 由来綠起 

当山は寛永四年(一六二七年)に、
会津四十万石の領主となって転封してきた
加藤嘉明公によって建立された。

加藤公は賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた武将で、常に南無妙法煙華経の旗印を背に戦場をくぐり、遂に会津の大守となったわけで開山は小湊誕生寺の日尊上人の法第教法院日栄上人で、四国松山の妙向山法華寺より格式五万石で招かれたという。代々の住僧は紫衣を勅許されていた。

元禄十三年の上書には江戸下谷要伝寺に着衣の格式を借した事情が示されていて面白い。膝公は、左文字の太刀、正宗の脇差をはじめ、黄金製幣一串を奉納し更にを召して、日蓮聖人像一体、三十番神像三十体(小仏)、十羅利女像十体を彫らせてい・る。現存している仏像はこの他に、子育経体鬼子母神像等六十余体であり、鬼子母神像を除いて木彫彩色仏である。寛永二十年に二代明成公は石州に移封となり、保科公の入封となったが、三代正容公は特に命じて、重臣原田家を当山の檀家とした。之によって、幕末の家老(大平口総督)の対馬種龍まで、原田家が当山の中心的種徒となったのである。当山には著主並びに若殿様などが度々参詣されたと伝へられている。

奉谢大守枉駕
 三月二十四日
  (正德四年)

「乗時奉迎大君駕領得寺門長久栄嘉恵欲比何有外磐梯山崎若松城」などの詩が残っている。

会津の歴史に残る人物としては、刀匠の三善長道家(長道は最上大業物として世上名が高く、江戸の長曽弥虎徹と肩をならべている)金工の阿弥家(初期会津正阿弥)や肥後熊本加藤清正公の家臣で二代忠広公の叔父、玉目丹波守も会津配流ののちに、この土地で没し当寺に非られている。上杉謙信の家臣で八千石の武将後藤忠栄は、独特の刀術をあみだしてのちに保科家指南役となり当寺の檀徒となった。

戊辰の役では、朱雀隊長、木村兵庫家(柴五郎陸軍大将の義兄)、剣術指南役、斎藤近六が自刃し葬られている。更に現在、東京在住の中村素 工学博士は加藤家以来の会津藩士の家から出て、近年勲二等に叙せられたわが国治金学の大家である。ほかに学者としては本郷出身で、東京大理学部で学んだ従三位湯田重太郎がいる。彼は東大の初代総長山川健次郎の下で苦学し、広島文理大教授となった。安政四年、近所から出た火は、山門、庫裡、本堂、番神堂、鐘つき堂などを焼き、法華寺の様子を変じ、以来復興できないで今日に至った。宗祖大士の七百達忌、当山日隆上人の七回忌にあたって本堂再建の大願をて、近年、れを実現させた。また、できれば名所として知られた白蓮華の咲きほこる蓮池なども再現していきたいと考えている。

行事
六月八日の鬼子母神大祭対十月八日のお会式。十二月六日の星祭が主たるものである。この外に、崔徒中会津藩士の子孫で構成されている「葵会」の先祖供養会、ぢ仏様として知られている秋山霊神祭などがある。【家世実紀、新福会津風土記、松平家々譜、会津の刀匠、会津若松史、開居慰草(日透上人筆) 法華寺志原(日上人筆)研究誌抄(日要ノート)会津剣道史]